
安井 豊
29年間施術をしてきても、人の体にはまだ「分からないこと」がたくさんあります。
経験を積むほど、その奥深さを感じるようになりました。
今回は、そんな私の施術に対する考え方を少し書いてみたいと思います。
「不思議な整体ですね」とよく言われます
施術をしていると、患者さんからよく言われる言葉があります。
「不思議ですね」
「なんでこれで変わるんですか?」
「ほとんど何もされていない感じなのに、さっきと全然違います」
当院の施術は、強く押したり、無理に体をひねったりするものではありません。やさしく触れているだけに見えることも多いと思います。
それなのに、硬かった筋肉がやわらかくなったり、体の動きが変わったり、触れていないところまで変化したりすることがあります。
そういう体験をすると、「不思議な整体ですね」と思うのも無理はありません。
ただ、そう言われるたびに、私は心の中で少しだけ違和感を覚えます。
なぜなら私は、不思議なことをやろうとしているわけではないからです。
むしろ、まったく逆です。
できるだけ自然なことをしたい。できるだけ体に無理のないことをしたい。その人の体にとって、そのとき一番必要なことをしたい。
私が考えているのは、それだけです。
では、なぜそれが「不思議」に見えるのでしょう。
29年間、人の体を見続けてきて、私はだんだんこう考えるようになりました。
不思議なのは整体なのではなく、そもそも人の体そのものなのではないか。
今回は、そんな話を書いてみたいと思います。
私がやろうとしているのは「一番自然なこと」です
私が施術で目指しているのは、「本来の状態に戻ること」です。
何か特別な状態にすることではありません。
人間には、本来その人なりの自然な状態があります。必要なときには筋肉が緊張し、必要がなくなればゆるむ。体を動かせば心拍数が上がり、休めば落ち着く。疲れれば眠くなり、眠ることで回復する。暑ければ汗をかき、寒ければ体温を保とうとする。
私たちが細かく指示をしなくても、体はその時々の状況に合わせて絶えず調整を続けています。
ところが、何らかの理由でこの調整がうまくいかなくなることがあります。
必要がないのに筋肉の緊張が抜けない。体がゆがんだ状態から戻れない。休んでいるのに体が休息モードに切り替わらない。眠っても疲れが取れない。
私は、こうした状態をその人の「本来の状態」だとは考えていません。
だから施術によって無理やり別の状態に変えるのではなく、体が自分で本来の状態に戻りやすくなるように手助けする。
それが、私の考える整体です。
私にとって「自然」とは、無理がないこと
「自然な施術」というと、「やさしい施術」「ナチュラルな施術」というようなイメージを持たれるかもしれません。
もちろん、それも間違いではありません。
でも私が考えている「自然」は、もう少し広い意味です。
私にとって自然とは、無理がないこと。そして、体の仕組みに逆らっていないこと。です。
自然なものは、基本的に合理的です。必要以上の力を必要としません。
例えば、よくできた道具や機械でも、本来の性能を発揮させるためには、そのものに合った使い方があります。
無理な使い方をすれば壊れます。力を加えれば加えるほど性能が上がるわけでもありません。
むしろ、そのものが本来どのように動くように作られているのかを理解して、それに合った使い方をした方が性能を発揮できます。
人の体も、どこか似ているのではないかと思っています。
ただし、人の体は機械よりはるかに複雑です。そして何より、自分で調整し、自分で回復しようとする働きを持っています。
だから私は、「どうすれば外から体を変えられるか」よりも、「どうすれば、この体が本来持っている働きを発揮しやすくなるか」を考えるようになりました。
人の体は、そんなに簡単に切り分けられません
医学や科学では、複雑なものを理解するために、条件を整理します。
これは、とても大切なことです。
何かの効果を調べるのであれば、できるだけ条件をそろえなければ比較ができません。
例えば、「腰痛に対して、この方法にはどの程度の効果があるのか」を研究するとします。
対象となる人の条件を決め、施術方法を決め、評価方法を決め、結果を比較する。
そうすることで初めて、客観的に検討できるようになります。
いわゆる「エビデンス」、つまり科学的な根拠を積み重ねていくためには、こうした考え方が欠かせません。
私は、それを否定するつもりはまったくありません。ただ、実際の臨床で一人の人間を目の前にすると、別の難しさがあります。
その人は単なる「腰痛の人」ではないからです。
年齢がある。仕事がある。生活習慣がある。過去のケガがある。睡眠の状態がある。食事がある。疲労がある。精神的な緊張もある。筋肉の状態も違う。骨格のバランスも違う。自律神経の状態も違う。そして、昨日と今日でも体は違います。
研究では、あることを明らかにするために条件を絞ります。
しかし、目の前の一人の人間を見るときには、本当は簡単に省いていい要素などないのではないか。
私はそう感じています。
「腰痛に一番いい施術」は、本当にあるのでしょうか
例えば、「腰痛には、どんな施術が一番効きますか?」と聞かれることがあります。
とても自然な疑問だと思います。
でも私は、この質問に簡単には答えられません。
なぜなら、「腰痛」という同じ名前がついていても、実際に体を見てみると一人ひとりまったく違うからです。
腰を施術した方がよい人もいます。腰だけを見ていても、なかなか変化しない人もいます。腰以外の部分に触れたことで、腰の緊張が変わることもあります。
前回は必要だった施術が、今日は必要ないこともあります。
つまり、「腰痛には何が効くのか」と、「今、目の前にいるこの人の体には何が必要なのか」は、似ているようで違う問いなのです。

安井 豊
私は後者を大切にしています。
症状の名前から施術を決めるのではなく、まずその人の体を見る。
これは29年間施術を続ける中で、ますます大切だと感じるようになったことです。
「全体を見る」とは、全部を施術することではありません
整体では、「全身を見ます」という言葉がよく使われます。
ただ、「全身を見る」と「全身に何かをする」は同じではありません。
全身を見たからといって、首も矯正する。背中も矯正する。骨盤も矯正する。足も施術する。筋肉も全部ほぐす。ということではありません。
私はむしろ逆だと思っています。
全体を見るからこそ、やることが少なくなることがあります。
体全体の状態を見た結果、「今日はここだけでいい」ということがある。あるいは、「これは触らない方がいい」ということもある。
施術者が知っている技術をたくさん使うことと、その人に必要な施術をすることは同じではありません。
私は、「何をするか」と同じくらい、「何をしないか」が大切だと考えています。
余計なことをしない。必要以上に体を変えようとしない。これは簡単そうに見えて、実はかなり難しいことです。
施術者は、どうしても何かをしたくなるからです。
なぜ、触れていないところまで変わるのでしょう
当院では、施術した場所とは離れたところまで変化することがあります。
例えば、一部分にやさしく触れているだけなのに、首や肩の筋肉がゆるむ。体全体の動きが変わる。呼吸が深くなる。顔の表情までやわらかくなる。
患者さんからすれば、「そこしか触っていないのに、なぜ?」となります。
これが「不思議な整体」と言われる理由の一つだと思います。
でも、人の体にはもともとさまざまな反射や調整機能があります。脳や神経系は、体のさまざまな場所から絶えず情報を受け取り、それに応じて体の状態を調整しています。
私たちは普段、それを意識していません。
心臓を一回一回意識して動かしているわけでもありません。体温を何度にするか考えているわけでもありません。筋肉の緊張も、すべて自分の意思で決めているわけではありません。
体は、意識の届かないところで膨大な調整を続けています。
そう考えると、ある刺激をきっかけに全身の状態が変化すること自体は、それほど不自然な話ではありません。
ただ、その仕組みのすべてを私たちが理解できているわけではありません。
「説明できないこと」と「不自然なこと」は違います
私はここを、とても大切にしています。
今の知識で十分に説明できないことが起きたとき、「そんなことは起こるはずがない」と考えることもできます。
反対に、「これは神秘的な力だ」と考えることもできます。
私は、どちらにも急いで行かなくていいと思っています。
ただ、「実際にこういう現象が起きた」という事実を、まず観察する。そして、「なぜだろう?」と考え続ける。
説明できないことと、不自然なことは同じではありません。
自然界では、私たちが仕組みを理解していようがいまいが、現象は起きます。
人間の体も同じだと思います。私たちがまだ十分に認識できていないだけで、そこには何らかの仕組みや法則が働いているのかもしれません。
それが、時として「神秘的」に見える。私はそれを、「人体の不思議」だと思っています。
不思議なのは、私の施術ではなく「人の体」です
そう考えるようになってから、「不思議な整体ですね」と言われたときの受け止め方も変わりました。
確かに、見た目は不思議かもしれません。でも私は、自分が特別な力で体を変えているとは考えていません。
むしろ、患者さんの体が反応している。
その結果を私は見ているだけなのだと思っています。
ため息が出る。眠くなる。筋肉がゆるむ。呼吸が変わる。体の動きが変わる。ときには涙が出る。
こうしたことを、私は施術の中で何度も見てきました。
私が「ため息を出させた」わけではありません。「眠らせた」わけでもありません。「涙を出させた」わけでもありません。
体が何らかの刺激を受けて、自分で反応しているのです。
そう考えると、不思議なことをしているのは私ではありません。不思議なことをしているのは、患者さん自身の体です。
学生時代に出会った、アンブロワーズ・パレの言葉
柔道整復師の専門学校に通っていた頃、医学史の授業がありました。
その中で、今でも忘れられない言葉があります。
16世紀フランスの外科医、アンブロワーズ・パレの言葉として伝えられている、
「我包帯す、神、癒し賜う」
という言葉です。
フランス語では、「Je le pansai, Dieu le guérit.」と伝えられています。
日本語では、「私は包帯をする。神が治してくださる」「私は手当てをした。治したのは神である」などと訳されます。
学生だった当時、この言葉を知ったとき、妙に腑に落ちたのを覚えています。
その頃は今ほど多くの臨床経験があったわけではありません。それでも、「ああ、そういうことなんじゃないかな」と感じました。
そして29年間、実際に人の体に触れ続けてきた今、この言葉が以前よりずっと深く感じられるようになりました。
「私は包帯するだけ」とは、どういうことなのか
この言葉は、文字通り受け取ると、「医療者は包帯を巻くだけで、あとは神様が治してくれる」という話に聞こえるかもしれません。
でも私は、少し違う意味で受け取っています。
傷ができたとします。医療者は傷をきれいにする。必要な処置をする。感染などの問題が起きないようにする。傷を保護する。治りやすい条件を整える。
でも、その傷を実際に塞いでいくのは誰でしょう。
細胞を一つずつ人間の手で並べているわけではありません。「明日までにここまで治そう」と意思の力で組織を再生させているわけでもありません。
最終的には、その人自身の体が治していきます。
骨折でも同じです。必要に応じて骨を適切な位置に戻し、固定する。
でも、施術者や医師が新しい骨を作っているわけではありません。実際に骨をつないでいくのは、その人の体です。
私たちにできるのは、体が治ろうとする働きを邪魔しないように、できるだけ良い条件を整えること。
パレの言葉を、私はそのように受け取っています。
「神が治す」を、私はどう考えているのか
では、「神、癒し賜う」の「神」とは何でしょう。
これは宗教的な意味として受け取ることもできるでしょう。
ただ、私が施術家としてこの言葉を考えるときには、「人間の中にもともと備わっている、自分で回復しようとする働き」あるいは、「人間の意思を超えて働いている自然の力」という感覚に近いものがあります。
例えば傷が治る。骨がつながる。眠ると疲労から回復する。体温を一定に保つ。血圧を調節する。感染すれば免疫系が働く。
私たちは、こうした働きの一つひとつに細かく命令を出しているわけではありません。それでも体は動いています。
考えてみれば、これはものすごいことです。
医学が進歩し、その仕組みの多くが説明できるようになりました。
それでも、「なぜ生命には、これほど自分自身を維持し、回復しようとする働きが備わっているのか」と考えると、私は今でも不思議に感じます。
パレの時代には、それを「神」と表現した。私はそこに、人間の中に備わっている自然の働き、生命そのものの力を見る。
言葉は違っても、「治しているのは施術者ではない」というところに、この言葉の大切な意味があるように思います。
人が人を「治す」ということへの違和感
29年間施術をしてきて、「先生に治してもらった」と言っていただくことがあります。
もちろん、ありがたい言葉です。
でも、私自身は少し違う感覚を持っています。
私は患者さんの体を治しているのだろうか。
そう考えると、「いや、違うな」と思います。
私ができるのは、体の状態を観察する。必要な刺激を加える。余計な緊張が抜けやすい状態をつくる。体が本来のバランスに戻りやすいようにする。
そこまでです。
そのあと実際に変化するのは、患者さん自身の体です。
だから私は、「治す」というより、「本来の状態に戻るお手伝いをする」という表現が一番しっくりきます。
これは謙遜して言っているわけではありません。長年施術をしてきて、本当にそう思うのです。
「治してやろう」と思うほど、うまくいかないことがあります
これは施術者として、少し恥ずかしい話でもあります。
患者さんに何とか良くなってもらいたい。
これは当然の気持ちです。
でも、その気持ちが強くなりすぎると、「絶対に変えなければ」「結果を出さなければ」「何とかしなければ」という力みに変わることがあります。
すると、不思議なことに施術がうまくいかなくなることがあります。
必要以上に何かをしてしまう。体の反応を待てなくなる。「こうなるはずだ」という自分の考えを、目の前の体に当てはめてしまう。
つまり、患者さんの体を見るより、自分が出したい結果を見てしまう。
これは良くありません。
余計なことをしなくなったとき、想像以上の変化が起きる
反対に、「自分が治してやろう」という気持ちがなく、目の前の体をただよく観察して、必要だと思うことだけをする。
そして、「あとはこの人の体に任せよう」と本当に思えたときがあります。
そんなときに限って、こちらが想像していなかったような変化が起きることがあります。
長年の痛みが大きく変わったり、触れていないところまで一気にゆるんだり、本人も私も驚くほど体が変化したりする。
そういう経験を、私は何度もしてきました。
もちろん、「無心になれば奇跡が起きる」という話をしたいわけではありません。
ただ、施術者が余計なことをしないことで、患者さん自身の体の働きを邪魔しなくなるということはあるのではないかと思っています。
こちらが全部をコントロールしようとしない。体の反応をよく見る。必要なことだけをする。そして待つ。
すると、体が勝手に次の仕事を始める。そんなふうに感じることがあります。
パレの言葉が、29年経ってようやく実感になってきた
学生時代に、「我包帯す、神、癒し賜う」という言葉を知ったとき、私は直感的に「そうだろうな」と思いました。
でも、あの頃の私は、頭で分かったつもりになっていただけなのかもしれません。
29年間、10万人以上の方を施術して、うまくいったことも、思ったようにいかなかったことも、説明できる変化も、いまだに説明しきれない変化も、たくさん経験してきました。
その結果、今になって、「ああ、パレが言っていたのはこういうことなのかもしれない」と思うようになりました。
施術者が主役ではない。主役は、患者さんの体です。
私がすべてを動かそうとするのではなく、できるだけ自然な状態をつくり、体が本来持っている働きを発揮できるようにする。そして、その先は体に任せる。
私にとって整体は、だんだんそういうものになってきました。
経験を積むほど、「分からない」が増えていきました
長年施術をしていると、「もう体のことは何でも分かるでしょう」と思われるかもしれません。
実際には逆です。
もちろん、若い頃より分かるようになったことはたくさんあります。触れれば分かることも増えました。体の変化も予測しやすくなりました。
でも、それ以上に、「分からないことがこんなにあるのか」ということも分かるようになりました。
人の体は、あまりにも複雑です。そして一人ひとり違います。理屈通りにならないこともあります。予想以上に変わることもあります。
逆に、簡単に変わると思ったものがなかなか変わらないこともあります。
だから私は、自分の理論に体を当てはめるのではなく、目の前の体が実際にどう反応しているのかを見ることを大切にするようになりました。
「不思議」を、無理に消さなくてもいいのかもしれません
若い頃は、「なぜこうなるのか」を全部説明できなければいけないような気がしていました。
もちろん、今でも説明しようとします。考えます。勉強もします。
でも最近は、分からないことを無理やり分かったことにしなくてもいいのではないかと思うようになりました。
科学的に分かっていることは、分かっていることとして大切にする。まだ分からないことは、「分からない」と置いておく。そして観察を続ける。
いつか説明できるかもしれません。できないかもしれません。それでも、目の前で起きている現象を丁寧に見続ける。
それが臨床家として大切なのではないかと思っています。
私が「不思議な整体」をしているわけではありません
「不思議な整体ですね」と言われることがあります。
でも私としては、不思議なことをしようとしているつもりはありません。
むしろ、できるだけ自然なことをしたい。体の仕組みに逆らわないことをしたい。余計なことをしない。必要なことだけをする。そして、その人の体が本来の状態に戻っていくのを邪魔しない。
それを突き詰めているだけです。
すると、ときどき不思議に見えることが起こります。
でも、それは私が起こしているというより、もともと人間の体に備わっている働きが表に現れただけなのかもしれません。
学生時代に出会った、
「我包帯す、神、癒し賜う」
という言葉。
29年間施術をしてきた今、私はこの言葉を、「私にできることを丁寧にする。そして、あとは体が持っている力に任せる」という意味で受け取っています。
人の体を長く見れば見るほど、よくできているなと思います。そして、分からないことがたくさんあるな、とも思います。
だから「不思議な整体ですね」と言われるたびに、私は少しだけこう思っています。
不思議なのは、私の整体ではありません。人の体そのものが、もともと不思議なのだと思います。

